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沼津大空襲から70年


70年前の今日、1045.7.17「沼津大空襲」と言う記事を目にしましたので、貼ります。
私自身、亡くなった祖父母から、そして両親から聞かされてきました。
父は弟(叔父)と囚人彫りに逃げるように言われ、走って逃げたそうです。
祖父母は、3人の子供を連れ昔の沼商(後の沼津青果市場、現カーマ沼津店)に作られた防空壕に逃げたそうです。
その時どうしても防空壕に入りきれず、生まれて半年だったおばを外に出してしまったそうです。
どんなに辛かった事か・・・・・幸い、叔母は今でも元気にしております。

戻ると家はなく、垣根が残っていたそうです。そこに、叔母のあぶちゃん(よだれかけ)が縛り付けられていたと言う事でした。

本当にあってはならない事なんですよ。
それなのにまだ世界は戦っている・・・・

すごく悔しい思いです。

以下貼ります。




「焼夷弾が奪った右脚 7・17沼津大空襲、語り継ぐ」

 沼津市街地の大半が焼失したとされる沼津大空襲から17日で70年を迎える。
当時小学1年生だった同市西沢田の岩下佳子さん(76)は、焼夷(しょうい)弾によるけがで右脚を失った。
「あの日が人々の記憶から消えてしまうことが怖い」。空襲の夜からこれまでに負った心身の傷を後世に語り継ぐことが、
平和につながると信じている。
 
 1945年7月17日夜。真っ赤に燃えた空から逃れようと、岩下さんは生家の同市市道町から甲州街道を抜け、
囚人堀(現・新中川)を目指した。あちこちから立ち上る炎、道端にうずくまる人々。気に留める余裕はなく、必死に走った。
「痛い痛い痛い」。右足小指に焼夷弾の破片が刺さったのは河原に着いた矢先だった。
 診察まで時間がかかり、膝下切断は免れなかった。手術後、同じ病室の少女が「私は腕を切ったよ」と慰めてくれた。
帰路で焼け野原になった町並みを見て、戦争の恐ろしさが身に染みた。
 
 小学4年生のころ、義足に出合った。当時の重い義足でも、自力で歩く喜びはひとしお。自宅周辺を夢中で歩き回った。
 優しい両親、明るい友達、「あなたの足になる」とプロポーズしてくれた夫。自身の境遇を理不尽に感じることもあったが、
思いやりのある人たちに囲まれ、前向きに生きる気持ちを取り戻した。
 
 2女に恵まれ、40代のころには御殿場口からの富士登山も成し遂げた。心身の傷は消えなくても、自分の心にしまっておけばいいものだと思っていた。
 数年前、戦争体験の講話を依頼され、迷った末に引き受けた。聴講する児童の反応から戦地だけでなく、銃後の生活の悲惨さを伝える意義も実感した。
 ことし、空襲の夜以来初めて、弟と一緒に現場を訪れた。目に映る風景は全く変わっていたが、当時の光景が脳裏によみがえり胸が締め付けられた。「私の中で戦争はまだ終わっていない」

 沼津大空襲 1945年7月17日未明、米国第20航空軍の120〜130機による大規模な焼夷弾爆撃。狩野川の屈曲点北西(現・大手町交差点付近)を中心に、約9080発、1040トンが投下された。死者274人、負傷者は500人以上で、9523軒の家屋が焼失したとされる。



今年8月に「キンダーコーア花輝」は、広島で「平和の祈り」を歌って参ります。
子供たちが本気で歌えある状況を作って上げたいと思っています。



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[ 2015/07/17 07:31 ]

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